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伊藤博文の場合

伊藤博文の名を聞けば、誰もが(おそらくは昔のお札の肖像画とともに)初代内閣総理大臣としての活躍を思い浮かべるが、彼は明治に入ってすぐに外国事務掛、参与兼事務局判事なども務めた。その後、大蔵少輔兼民部少輔として貨幣制度の改革に着手し、一八七〇(明治三)年に財政幣制調査のためにアメリカに出張、翌年には岩倉使節団の副使として米欧に出張している。明治初期、英語交じりの都々逸が作られるほどの英語狂騒のなかで外交を手掛けた伊藤は、英語とどのようなつき合い方をしたのだろうか。伊藤博文は、一八四一年、周防国(いまの山口県)の貧農の家に生まれた。父・十蔵が伊藤武部衛のもとで働いたことが縁で、家族ぐるみで伊藤家を継ぐこととなった。五七年、古田松陰が主宰する松下村塾に学び、尊王攘夷思想の影響の下、六二年には長州藩の同志、高杉晋作、志道聞多(井上馨)らとイギリス公使館の焼き討ちを実行した。伝記的に見ても、時代背景から言っても、彼が二〇歳前に英語を学んだとは考えづらい。伊藤がはじめて英語と本格的に出会ったのは翌六三年、彼が二一歳のときである。当時はまだ渡航解禁前であったが、井上馨らとともに藩命を受けて、ひそかにイギリスに送りだされたのだ。途中、イギリスで何を学ぶかを尋ねられた際、井上が「海軍」のつもりでnavigation「航海術」と答えたために、それからイギリス到着までの四ヵ月間、彼らは水夫として働かされたという。英語を用いる際に頼りになるのは、英学者・堀達之助らが作った、まだ不備の多い日本初の印刷の英和辞書『英和対訳袖珍辞書』二八六二年出版)だけだったというから、彼らの意思疎通の苦労が窺える。「水をくれ、湯をくれ」と言うくらいが精一杯だったらしい。同年九月にロンドンに到着した伊藤は、学者の家に下宿をして、博物館や学校に通い勉強をした。英語力も飛躍的に伸びたらしく、「幾許くもなくして新聞を読み得る程度になった」(『伊藤公全集』)というが、これは常識ではやや信じがたい。一方で、この頃、伊藤はまだ『タイムズ』を読むまでにはなっていなかったとの記録もある。また、彼が帰国する原因となった長州藩の外国船砲撃事件の新聞記事を(自分で読んで知ったのではなくて)ジャーディソーマジソソ社の社長から知らされたこと、そしてそのマジソソの伝えるところによれば、帰国を決意した理由を伝えるときの英語が「甚しく不十分だった」(『史伝伊藤博文』)ことを考えあわせると、いくら伊藤といえども、数力月で英字新聞を読みこなすほどの英語力を身につけるのはさすがに無理であったと思われる。結局彼は、ロンドンで半年過ごしたのも、攘夷が無謀であることを藩に知らせるため、英学修業半ばにして帰国することになった。
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